その子が虹の橋のたもとに旅立ってからその人生、いや猫生についてまとめたくなった。
我が家の飼いネコ未満、放置猫以上だった黒猫チビ。
すでにこの世の存在ではないので新しい画像を手に入れることはできない、だから時々画像加工でおしゃれさせたりする。
若いころに短歌や俳句、あるいはショートストーリーを作っては雑誌に投稿して時々採用される 、ちょっとだけおこづかいもゲットできた(^^)v。
そういったことから離れて数十年、活字文化を取り巻く状況も大きく変わっていた。
さてどうしようか?
SNSの字数制限は短すぎ。
小説投稿サイトはハードル高すぎ。
ブログを選んだのはそんなわけだ。
初めた年に人間目線でチビの生涯をまとめた。
そして、2年目に死んだペットの魂が集うという虹の橋のたもとの住人目線でチビおよび兄弟たちの物語を書いた。
犬や猫の寿命を考えると普通は飼い主より先にあの世に行く。
その悲しみや心の空白を埋めるよりどころとして虹の橋のたもとのストーリーはよくできている。
それにしてもなぜ虹だったのだろう?
この世と異界をつなぐ儚き橋だからだろうかな。
虹の橋のたもとの創作をしていて、LGBTの象徴に虹が使われているということを知った。
「多様性」を象徴しているらしい。
五輪における理念もそれだったはずなのに、わかってない関係者がわらわらいて随分物議を醸しだした。
その「反省」?というのもなんだが、開会式で素晴らしいと絶賛されたMISIAの君が代独唱の時のドレスの裾は虹色だったことも話題になっていた。
いろんな色がたくさんあるから「多様性」ということらしいが、色は不思議だ。
多様な色をそのまま合わせると「黒」になってしまう。
でもいろんな色の光を合わせると「白い光」となってしまう。
多様性を苦々しく思う人は色を合わせると、濁って最終的には「黒」になってしまうと心配しているのだろうか?
黒が必ずしも悪いわけではない。裁判官が法廷で身に着ける色は黒だ。
何物にも染まらない「公正さ」を表すから。
人を色としてとらえるなら印象派の絵画は参考になる。
印象派の絵画は、たとえば緑色の個所があったとして近づいてみると、濃い緑や薄い緑はもちろん、黄色やオレンジ、補色関係にある赤すらも点として存在している。
印象派の絵画は離れて鑑賞するのが普通だ。
国とか特定の職業とか、あるいは一つの思想とか、遠くから見る人が感じる「色」のようなものがある。
一つの色として見える箇所も異なった色の集合体であると、頭の片隅に入れておくのは悪くない。
人を「色」としてとらえる
人を「光」としてとらえる
虹になっても、絵画になっても、あるいは闇の中に沈みこんでも、それもまた「多様性」というやつか。
現在の我が家の飼いネコのマオ、印象派風('ω')ノ。
はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」