「ほめて育てる」というのが良いと認知され始めたのはいつごろからでしょう?
本日10月19日は「ほめ育の日」。
一般財団法人「ほめ育財団」が2007年の今日、活動をスタートしたからです。
目下の者侮辱を正当化する連中
うちらが子供の頃は、相手が子供なら侮辱的な言葉をなげつけても「愛情」なんて言葉で言い訳されていましたけどね。
ほめて育てるにも批判的な意見はあります。
その中には、ほめて育てていると、社会に出た時に叱られることへの耐性がつかなくなる、実際そういう若い人間が相当数いると…。
でも、これって「ほめる子育て」と「叱らない子育て」をごっちゃにしてませんかね。
確かにこの二つをごっちゃにしているような子育て方針をどや顔で主張する親って存在するみたいです。さすがに子どもが悪いことして叱らないならば、迷惑かけられた周囲の人間から顰蹙買うのは当然だし、大人になって困るのは子供自身だけど。
ただ、けなされて自信なく育ったうえに、その言葉の暴力の数々を「それも愛情」などと言って理不尽に正当化されてきた身としては、昭和の時代の虐待じみた子供への言葉の暴力(けなしてばかりでほめない)を肯定するような「ほめ育叩き」は、どんだけ無自覚に言葉の暴力を日常的に振るってきてそれを正当化したがる連中やねん、と、思うだけでもあります。
アドラー心理学
昔の上の者が下の者(親から子、教師から生徒、上司から部下など)に、どれだけ言葉の暴力を振るっても「愛情」や「指導」で正当化したがる人間は論外ですが、アドラー心理学の「人を褒めてはいけない」ことの理由についてだけはなるほど納得できます。
褒めることは相手の自律心を阻害し、褒められることに依存する人間をつくり出してしまうことになるから
褒められることに依存、とは、つまりもう一度褒められたいと思わせることで、逆に相手の行動をコントロールすることも可能、そういうやり方で子供や部下を思い通りに動かそうとする親や上司っているよね。
アドラーによると「上から褒める」のではなく、「横から勇気づける」のがグッドであると。
上からものを言うのははけなすにしても褒めるにしても、
「思い通りにならない相手が忌々しいから堕としてやる」か、
「思い通りにならない相手を手なずけたいから褒めてやる」かの、
ベクトルの違いだけですから。
上から目線でほめられるよりは、共同体への貢献を感謝された時に人は真に勇気づけられるとか。
ほめ言葉のボキャ貧
余談ですが、貶められ続けて大きくなると「ほめ言葉」のボキャブラリーが乏しくなります。
興味深いにゃんブログの感想にしても「かわいい」「素敵」のワンパターン…。
読んだ感想を言うにしても、そうじゃないんだよ!
言葉が出てこない、思い浮かばないけどなんかそれだけじゃないんだけどさ…。
こんな葛藤しょっちゅう抱えています。
昔、女はなんでも「かわいい!」と言いやがる、と、女なるものの口癖をせせら笑うような芸能人(明石家さんま?)がいました。
でも、社会全体の風潮みたいなもので、女が一番褒められる属性が「かわいい」だったんじゃないですか?
言われたことがなかったり、社会に認知されたなかったりするほめ言葉って、逆に自分がほめる立場になった時に、頭に思い浮かばないのですよ。
☆本日の癒し~猫をほめる~☆
舌をちょっと出している珍しいショット。
かわいい、すてき、ハンサム、イケメンetc。
ナデナデに勝る誉めはないにゃ(マオ)。
そうですか、ではまた(^^♪。