今週のお題「理想の老後」
先日庭の栗が収穫できました。
園芸品種ではなく、山に生えている栗で、移住した当初はそれを毎年拾いに行ってました。
宅地造成のためにいずれ切られるだろうなと思い、拾った栗のいくつかをダメもとで植木鉢に植えたら本当に芽が出て育てたら、一昨年くらいから収穫できるようになったのです。
こちらがその収穫。
夏野菜のおくらやミニトマトもありますね。
夏と秋がごちゃ混ぜ。
右側のはブルーベリーでおそらく今年最後の収穫になるでしょう。
季節っていうのはこんな風に少しづつ変わっていきます。
秋というのは、紅葉マークというのもあるように晩年の象徴でもあり、人生そのものもこうやって少しづつ移り変わっていきます。
人間五十年の時代なら、私の場合すでに老後。
「まだ逝かないのか?」なんて言われるかもしれません。
ただ今の五十代は体力にしても意識の上でもまだまだ収穫できる夏野菜のよう。
(ミニトマトなど地植えでも十月くらいまで収穫可能)
老後(秋)に片足突っ込んでいながらも、人生まだまだこれからって気持ちでしょう。
そんな微妙な年代で「老後」というものを考えるにあたっては、私が現在おくっている生活とはちがうかたちのものを空想していきたいです。
まず、今一緒に暮らしている犬や猫は生物としての寿命の関係上、すでに“あちらの世界(あの世)”に行ってるでしょう。
旦那もしかり、あ💦、旦那に関してはどっちが先に逝くかなんてわかりません。
ただ「老後」を考える、それも今と違う形を、なのでとりあえず犬猫と同じくあちらの世界へ行った設定にしておきます。
まず今の家は、一人じゃ車の運転嫌いだし、庭の手入れは大変すぎるし住んでないだろうな。
(住宅街の性質上、草ぼうぼうの荒れ果てた庭にするわけにはいかないので)
だとしたら、どんな場所に住むのが理想かというと、公共の交通機関が整っていて、なにより、
品ぞろえ豊富な『図書館』!
これが近くにあってほしいです。
できれば歩いていける距離に\(^o^)/!
言っては悪いが田舎の図書館はちょっと品ぞろえがさみしいので。
自分の家を図書館のように本をたくさんそろえればいいと、いう考え方もあります。
でも晩年にあたって自分の身の回りの物はできるだけ少ない方が理想。
ユーザーネームの美捨の「捨」は断捨離の「捨」です。
結婚した当初も旦那の家にはすでに他界されている先代、あるいは先々代からの私にとっては趣味じゃない一山百円程度の食器や台所グッズが山のようにあって、それを整理しいくつか処分をすると「なんでも捨てるんだな」と旦那に言われちょっとムカッとした記憶があります。
それに実親からも私からすればありがたくない、見た目圧迫感のある婚礼家具とか、それは熊本地震のどさくさでいくつか、処分することができたけど、ほんとうに自分の意志で持たされたものではないもの好みに合わないものが山ずみ(-"-)…。
そういうの全部捨て去って、身の回りの物はトランクとリュックサックひとつづつの中におさまる量だけもって生活したいです。
洗濯機や冷蔵庫、エアコンなどの生活に最小限必要な大型家電は、まあ置いとかなきゃならないだろうけど小さいのでいいよね。
犬や猫は捨て猫を保護してしまったとか、なりゆきから飼う可能性もあるけど、自分の意志であえて飼うことはないだろうな。
いつあの世にお暇するかわからない状況で、残された動物の行く末が気になってしょうがない状況は避けたいですから。
こういう「独居老人」って世間的にみると不幸なのかな?
物理的にも精神的にも余計なものを持たされ続けてこっちはそれが嫌だし苦しいのに、それこそが「恵まれている」とか、だから「ありがたがれ!」なんて押しつけを受けてきた身としましては、自分の好み以外のものを一切排除したミニマムな生活をあの世に行くまでの数年間、あるいは数十年間でも味わってみるのは悪くないかなと、思ってはいます。
☆本日の癒し~にゃん白宣言~☆
おれより早く逝ってはいけにゃい♪
にゃん白宣言って何だ?という方は
こちらの楓屋さんの記事を参考にどうぞ('ω')ノ