私怨と公憤は表裏一体!
いきなりなんですか?といいますと、
私怨=個人的な恨み
公憤=正義感から発する公共のための憤り
まず自分語りからさせていただきますと、スポーツというより体育の授業といった方がいい小学生時代に経験した嫌な思い出。
運動が苦手でした;つД`)。
それもそんじょそこらの苦手ではないです。
はんぱじゃない運動音痴です。
低学年の時に鉄棒で逆上がりができないというのではなく、体が細すぎて腕の力もなくてまず鉄棒をもってよいしょと上がってその姿勢を保つことができなかった…。
走らせても遅いし、小学校の頃って運動神経にかかわらず運動会やチーム競技って全員参加でしょう。
お前あっちいけ的な対応はしょっちゅうでした。
下手な子を邪魔者扱いする勝ちたがりの運動得意な子ばかりではなく苦手な子にとっても、大人は善意でも、全員参加なんて余計なお世話だったんですよね。
実際に他のことでもいじめていた連中が跳び箱飛べないことをネタにして、体育の授業に一人だけさらし者にして、罵声を浴びせて無理やり練習させられたことがありました。
火事場のバカ力っているのはあるもので、そしたらその時間だけはなぜか飛べるようになった、しかし、日が変われば元の木阿弥で飛び方忘れてしまっていた、
一度飛べたのだからもう一回練習なんてまったく思わない、そもそも跳び箱飛べなくて大人になってから困ったことなど一度もないじゃん。
いじめの延長でできない奴に罵声浴びせてからかって無理やり練習させたのだから、そんなの一人だけやり玉に挙げられたことだけ記憶に残りました。
無理やりやらされたこと自体ものすごく苦痛に感じていたし、
「飛べるようになりやがった」なんて笑い話のように彼らはあざけっておりました。
あれ以来、スパルタかなんか知らないけど、罵声や暴力を使って人にものを教えようとするやり方が大嫌いになりました。
(もう一つ母親がしょっちゅう罵声を浴びせていた、という理由もありますが。)
私の場合は同じクラスのいじめっ子だったけど、コーチ(指導者)の罵声や体罰込みの指導で、できなかった子ができるようになって「先生のおかげです」って美談。
正直反吐が出てきますね。
少年漫画によくある「強くなりたい」という動機のもととんでもなく厳しい修行に励んでレベルアップするというパターン。
まあ、漫画だから勝手にやってよね、と、それが好きな『ワンピース』や『鬼滅の刃』でもそこのところは冷ややかに見ていたりします。
(善逸の感覚にけっこう近いかも…。)
大阪の高校バスケでコーチの体罰を苦にしてジサツした生徒がいた事件。
子どもが死を想うほど追いつめられ実行してなお問題のコーチの指導法を擁護する者が高校内にも、一般の第三者にも、著名人にもわらわらいましたね。
そいつら全員ジゴクに落ちろ、メディアに露出している人間はさっさと姿消せ!
って、個人的には思っております。
ヒューマンライツウオッチングの報告によると、日本では多くの子どもがスポーツの現場において肉体的・精神的暴力を受けていて、スポーツが痛みや苦痛、恐怖を味わう場となっているのです。
これは森喜朗の女性蔑視発言以降、日本の女性差別の問題提起がされるようになった以前から、五輪開催予定国にもかかわらず問題視されてきた人権侵害の事案です。
ちゃんと対処しているのでしょうかね?
昔、日本テレビ水曜夜放送の『一億人の大質問!?笑ってコラえて!』で男子新体操や、スポーツじゃないけどブラバンや吹奏楽などでやたら生徒に罵声を浴びせる「熱血」教師が全国大会を目指す話を感動的な「美談」でまとめていました。
私はあれを見るのが嫌でたまらなかったのです。
(旦那が好きで見ていたから、まあ、番組の他の個所は自分も嫌いじゃなかったが…)
やれば自分の手柄にもなる「栄光」を目指す指導者のせいで、吹奏楽ではもともと音楽好きな子がクラッシックを聞くのが嫌になるほどのトラウマを背負った話。
実はあるのですよね、なんてもったいない!
普通に楽しんで音楽をやれていたなら嫌いにならずにすんだのに。
人類すべての遺産ともいうべきクラッシック音楽が聞くのも嫌なほどのトラウマと結びついたりとは!
そういう「犠牲者」が存在していても、「我慢」できた子だけついてきて、感動の栄光秘話を作ればいい、なんて認識の大人がゴロゴロ存在しているのが日本。
それで世界的にも恥さらしなスポーツの現場での、子供の虐待なんてなくなるとは思えませんけどね。
そういう大人どもがちょっとでも早くすべて「駆逐」されることを願わずにはいられません。
私がこういう風に考えるのも始まりは「私怨」でした。
そもそも「公憤」といっても、自分の経験と全く関係のない話で憤ることができる人がいるのか?
森喜朗の発言についてもやたら「切り取り」だの、何だのと擁護する意見の中に、彼の発言に怒っている人の発言を「私怨」として扱い聞き入れる価値がないと貶めるむきもあります。
そりゃ「私怨」は山ほどあるでしょう。
森喜朗のようなおっちゃんらが、それぞれの職場にゴロゴロ存在するのが日本なのだから。
だから聞き入れる価値がないとか。
その主張が不出来でつまらないとかいう反論のほうがよっぽどつまらないと個人的には思いますよ。
体力勝負のパトロールは僕に任せろ(マオ)。
今週のお題「告白します」